今回は、プカラス絵画教室から近い史跡を紹介したいと思います。
綾瀬駅を利用するようになって早20年が経ちます。
近隣に気になる場所は、あちこちあるのですが、、駅からほど近い場所にずっと気になっていたお屋敷のようなお宅がありました。
見た目からして何か特別な家であることは間違いないのですが、何も表記していなかったため、何だか分からなかったのです。
それが最近、散歩していたら立て札が立っていて、ナント!「新撰組」に係わるお宅だったということが判明しました。
新撰組の近藤勇が官軍に追われていって、流山で捕まり、板橋で最後を閉じた。というくだりは何となく知っていたのですが、まさか!こんな近くにその新撰組の史跡があるとはビックリ!!

近藤勇の写真
そこで、グーグル先生に聞いてみたところ、いろいろ分かって参りました。
『新撰組は、甲州勝沼で官軍に敗戦し、江戸で分裂した新選組が、再起を図って千住宿近郊に移って、屯所としたのが、五兵衛新田(現・足立区綾瀬)。
名主見習の金子家当主は、若干22歳の金子健十郎。この小さな村をあげて、最後には220人以上となった新選組隊士が流山に移るまでの19日間を支えました。(3/13〜4/1)
この村の金子家はじめ、いくつかの場所に新選組の隊士・歩兵が分宿していました。
その時の様子が、昭和55年に発見された「おほへ」などの金子家文書によって、読みとくことができるようになりました。』とのこと。
■ 金子左内家慶応4年(1868年)3月初旬の甲州戦で敗れ江戸へ戻った新選組は、江戸四宿のうちただひとつ新政府軍に抑えられていなかった千住宿に隣接するここ五兵衛新田へ移動。3月13日夜、突然新選組隊士48人が現れ、それ以降19日間に渡ってここ金子左内家本陣となったそうです。

新選組の屯所となった当時の金子家
金子家は五兵衛新田を開拓した金子五兵衛家直の流れをくむ家柄で、家号が「左内」であったため「左内様」と呼ばれていたとか。当時の当主は名主見習だった金子健十郎長行さん。なんの因果か?ほぼ全額金子家持ちで新選組のお世話をするハメに…。
大久保大和と名前を変えていた近藤は14日にここに到着(13日とも)、内藤隼人となっていた土方は15日着。以後旧幕脱走歩兵などが続々と集まり、最終的に227名という大集団に…それらの兵卒は周囲の観音寺/滝次郎宅/新宅(金子家別邸)などに分宿していたそうです。
こちらへは松本良順をはじめ勝海舟配下・松濤権之丞、会津藩士・兼川直記?、甲州客十人など、さまざまな人々が来訪、江戸との連絡は密だったもよう。
現在の母屋自体はもともと少し南にあったものを、当時の部材を利用して建て替えられたものとか? 当時の敷地はおおよそ3000坪もあったそうです。

現在の門構え

反対側から見た門構え

金子家文書の説明

道路を挟んで向かいの家も金子さん
金子家
※ プカラス絵画教室から、徒歩7分
■ 観音寺兵卒の分宿先のひとつ、観音寺。 金子家の菩提寺でもあります。五兵衛新田開拓者・金子五兵衛家直さんのお墓もここにあるそうです。本堂はつい最近建て替わったものとのこと。

新選組はこのお寺に分宿しました

鐘撞き堂

観音寺にまつわる説明
観音寺
※ プカラス絵画教室から、徒歩4分
■ 大室家この周辺を支配していた代官・佐々井半十郎に新選組屯所についての報告書簡を送った、五兵衛新田役人惣代/年寄・大室源右衛門宅(こちらもやはり五兵衛新田開拓に関わった家柄だそうで、いまだに大木に囲まれた当時の雰囲気溢れる外観です。

立派な建物&土蔵。電車からも見えます。

裏手?の塀は、百数十年前の古瓦を使った立派な塀。

出来たのは最近のようです

「大室」の文字

もっと有名になっても良さそうだけど。。
大室家
※ プカラス絵画教室から、徒歩5分
■ 綾瀬川土方が釣りをしていたと伝わる綾瀬川。今は真上に高架が走り、とてもそんなのどかな雰囲気ではないですが。 五兵衛新橋から北、五兵衛橋方面を望む…当時はこの五兵衛橋と南の伊藤谷橋(いとやばし)が村の入口だったらしい?(伊藤谷橋やそのさらに南の水戸橋には見張りがたてられていたという話も)
綾瀬川はもともともっと北の古利根川に流れていたものを、享保14年(1729年)に南の荒川に流れ込む水路として整備したもので、このあたりは船での物流や人の行き来が盛んだったとか。金子家の記録で新選組滞在時の貴重な史料となっているおほえ(「覚え」)にもたびたび船に関する記述が登場
ここから利根川方面への移動をたびたび希望していたものの、いろいろ思惑のあった?旧幕府上層部から引き止められていた新選組も、4月1日に香川敬三/有馬藤太ら新政府軍の一隊が宇都宮方面へ向かうため千住宿へ進出、そこで新選組所属と思われる歩兵が逮捕されるという事件が起きたため、急遽夜中に流山方面へ移動することに…金子家には礼として熨斗に包んだ金二千疋(約5両?)を置いて行ったそうです。
新選組については地元に言い伝えなどがほとんど残っておらず、五兵衛新田に駐屯した理由や意義についてはいままでほとんど語られることは無かったそうなのですが、伊奈家(現東京拘置所)の南にあったという銭座と金子家、「弾丸製造」の関わりなど、新説も展開されつつあるそうです! いま最も面白くて要注目のスポットかもしれません。
プカラス周辺を散歩されるときは、是非一度ご覧になってみてください!
posted by プカラス絵画教室 at 07:21|
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